美少年・那須雄登さんの家系にはスゴイ方がいるとの噂が…
調べてみた結果なんと!
那須雄登さんの先祖はあの『平家物語』にも登場する武将の那須与一と関係があるようです。
そんな那須雄登さんの家系図が知りたいですよね?
そこで今回は、那須雄登さんの家系図にスポットを当てていきます!
それでは早速いってみましょう。
【図解】那須雄登の家系図まとめ!
那須雄登の家系図を調べてみましたが、那須家の近年の家系図については分かりませんでした。
そこで、「那須与一」の家系図をまとめました!
「那須与一」の家系図はこちらです!

歴史上の人物の家系図には諸説あるようで…
これが那須与一の確実に正しい家系図です!とは言えません。
様々な家系図などから推測した者であることをご了承ください。
歴史上の人物の家系図がどんどんと繋がっていき、那須雄登さんが誕生したのだと思うと
とても神秘的に感じますね!
那須雄登の先祖は武将の那須与一!?

結論からお伝えすると、那須雄登さんの先祖は武将の那須与一の弟です。
那須与一の弟の「那須宗久」が那須雄登さんの先祖です!
武将として有名なのは「那須与一」です。
しかし弟の「那須宗久」についてもウィキペディアに載っており、
那須家の歴史上の人物の1人であったことが分かります。
那須雄登さんの先祖、那須与一の弟の「那須宗久」は父方の先祖に当たります。
那須雄登さんその事実を曾祖母から聞いたようです。
自分の先祖に平安時代に活躍した武将がいるなんて、驚きですよね!
那須与一の弟の「那須宗久」は心優しい武将だったようです。
那須与一はどのような人物?

那須与一についてまとめました。
「那須与一」とは?
- 平安時代末期の武将・御家人
- 系図上は那須氏二代当主と伝えられるが、一般的に宗隆と紹介される
- 与一は十あまる一(余一)、つまり十一男を示す通称
- 那須資隆の子として誕生
- 治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍
- 元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げる
- 為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ
- 与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いた
『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名です。
幼い頃から弓の腕が達者で、兄達や父・資隆を驚嘆させたと語り継がれています。
弟・那須宗久はどのような人物?
弟・那須宗久についてまとめました。
弟「那須宗久」とは?
- 那須宗高(与一)の弟
- 病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いる
- 日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ
- 椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止める
- 幕府には討伐を果たした旨を報告した
- 宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝えた
- 平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた
- 平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠
- その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受ける
- 宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国
- 鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配した
- 戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫
椎葉に進撃した那須宗久は、人々の姿を見て追討を取り止めるました。
幕府には「討伐を果たした」と報告。
その後は椎葉に住み着くことになったのです。
このエピソードから、那須与一の弟・那須宗久が心優しい武将であったことが分かりますよね。
宗久は、平清盛の末孫とされる鶴富姫との間に女の子が生まれます。
後に、宗久と鶴富姫の娘の婿が「戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏」となる人物のなのでしょう。
宗久と鶴富姫の出会いが那須雄登さんの家族へと繋がっていくのですね!
以上、那須雄登さんの家系図についてお伝えしました!
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